< 八幡さまのこと >

八幡さまは、大分県宇佐の地に「私は、この国と皇室、国民全てを守るために現れた、誉田(ほんだ)天皇(応神天皇)広幡(ひろはた)・八幡麻呂(やはたまろ)である」(古墳時代)と告げられた神さまです。そこに鎮座したのが八幡神社の総本宮=宇佐神宮です。
応神天皇の時代、朝鮮半島との交流を盛んに行いました。そのため、多くの渡来人より、養蚕・機織・稲作の灌漑技術や、漢字などの進んだ文化が取り入られ、国力が発展・増大しました。
その応神天皇の御霊とされる八幡さまは、東大寺の大仏建立に「日本のすべての神様を率いてその大事業を成功させましょう」(奈良時代)と、大きな工業力(鋳造技術)を発揮しました。
そして仏教を信仰する人々よりは八幡大菩薩と仰がれ、民衆救済の神さまとしても信仰されました。平安時代には、新しい都の守護神(石清水八幡宮)となり、やがて源氏が氏神(先祖神)として、鎌倉時代には鶴岡八幡宮が建立され、幕府政治の要となりました。その後、産業・文化・武門の神として武家、庶民にますます篤く崇敬されてきました。
現在も、特に厄除、家内安全、交通安全、安産、商売繁盛、学業成就、五穀豊穣、殖産興業など、人々の苦難を救い、あらゆる願いに応える多くの御神徳を備えた神さまとして仰がれ、全国で最も広く八幡宮・八幡神社としておまつりされています。
八幡さまのお使いは、白鳩です。平和を守る武門の神の使いとしても、平和の象徴とされる鳩は誠にふさわしいものといえます。
平安時代後期にまつられたと伝えられる「太子堂八幡神社」は、世田谷の要所・三軒茶屋の緑豊かな杜の中に位置し、皆様に親しまれています。

御祭神

誉田別尊(ほむたわけのみこと)= 第15代 応神天皇(おうじんてんのう)


立地

 

東急田園都市線・世田谷線「三軒茶屋駅」に高くそびえる「キャロットタワー」の上より展望すると、北西の程近い所にお椀を伏せたようなこんもりとした森が見えます。
この森は幹周り4メートルを超える大きな楠を中心に大小数百本の樹木に囲まれた神の杜(もり)で、そこには太子堂の町々をお守りする八幡神社が祀られています。
烏山川の北方に位置するこの地は、関東ローム層の固い安定した地盤で、南に向かって緩やかな斜面は神を祀る社殿を建てるに最もふさわしいところです。西側はは若林と境する鎌倉に通ずる古道「鎌倉道」に接し、昔は交通の要所でした


設立

 

今から千年ほどの昔平安時代の終わり頃、陸奥(宮城・岩手)の豪族安倍氏の反乱(前九年の役)を源頼義・義家親子が征伐におもむく途中、鎌倉道に面したこの神社に戦勝を祈願し、杯を交わし休憩をしたと伝えられています。

正確な文献の資料はありませんが、このことから永承六年(1051)以前には、この地の守り神としてこの神社の歴史が始まっていたと考えられます。

 

御祭神は、当初はこの地を開拓した先祖をこの地の守護神としていたと考えられますが、後に源氏の氏神となった八幡神が、源氏の関東での領地拡大に伴い、しだいにその地の守り神として祀られるようになったことにより、この社にも八幡神がまつられるようになったと思われます。

源頼朝による幕府政治が鎌倉に始まり、さらに室町時代には世田谷を始め近隣の土地を領地とした吉良氏や、江戸幕府を開いた徳川氏の源氏一門の八幡神への信仰の影響もあって、世田谷には八幡神社が多くあります。(50社中12)

当神社も円泉寺の記録によれば、文禄年間(1592~1596)に八幡神社として建立されたとあります。豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼし、全国統一をした後の頃になりますが、北条氏の家臣の一団がこの土地に移り、草分けとして開拓を進めた頃のことです。おそらくその頃に社殿が神社らしく整えられたことにより、その時代の創立とされたのでしょう。



発展

 

江戸時代には世田谷全体が、幕府の直轄領である天領、あるいは大名(彦根藩・井伊家)や旗本の領地が入り組み、領民と土地はそれぞれの支配者の下にあり、太子堂の地はその縮図のようでした。

 

この頃、ご府内(江戸城下)への一大農産物供給地として発展しておりましたが、支配違いの農民たちは、八幡さま祭礼に心を一つに神祭りに奉仕し、神賑わいを楽しみ村落の統一を保っていました。

明治の近代化は、和魂洋才(わこんようさい)の精神を柱にして富国強兵を目指しました。町並みは広がり、農地もしだいに軍用地・商工地・住宅街に変わりました。

太子堂という小さな一地区の神社も、西欧諸国に並ぶ発展を急速に進める国策に従い「国家のまつり」を軸として町の発展を祈る場所となりました。

国家意識が最も高くなった昭和11年~12年にかけて、当八幡神社も小さな社から現在の立派な社殿や、鳥居、神楽殿・社務所が新築し整えられ、神社前の道路も改修されました。



戦後の発展

 

戦時中、この近辺はアメリカ軍の爆撃を受けず、神社も守られました。戦後の復興は目覚ましく、経済は高度成長し、東京オリンピックや新幹線・高速道路の整備により、街並みも新しく変わり活気がみなぎるようになりました。
現在、この神社も由緒ある太子堂の名にふさわしく境内も整備され、一部は区の要望により児童公園地として無償供与されています。平成23年春には、大地震に備えて社殿・神楽殿に耐震補強がなされ、夜も明るく多くの灯籠の光に包まれ、御神威ますます活々と高く清らかなたたずまいを醸し出しています。